クラカメを知る以前の私は、過去、カメラとの関わりはこうだった

さて、プラハで出会い、興味を抱くことになったクラカメではありますが、この後のクラカメ蒐集の話に展開していくその前に、私自身のそれまでのカメラ歴を語っておくことにしたいと思います。
なぜならば、それまでカメラとの関わりにおいて特に思い入れのある生活をしてきたわけではなく、また、いわゆるカメラファン・カメラマニアでもないごく普通の平均的な私が、クラカメにここまで入れこむようになったかの隠れた背景・要因が、私のカメラ歴の中にそのヒントを見いだせるような気がしてならないからです。
他人のカメラ遍歴、カメラ体験など聞いてもちっとも面白くないとは思いますが、しばらくはご辛抱ください。 私自身は戦後のベビーブーム期の生まれですので、同世代の方は、「自分の時はどうだったかな~」と思い出しつつ、ご自身の経験と照らしあわせて読み比べるのも一興かと思います。

子供時代

まず小学校低学年の子供時代、戦後のカメラブームの火付け役となった『2眼レフ』のことは比較的よく覚えています。何と言ってもあの独特な形・フォルムですから、子供にも印象深く記憶に残っていたのでしょう。 私の叔父もご多分にもれず2眼レフを愛用していて、私を公園や遊園地などに遊びに連れて行ってくれる時は必ずカメラを携えていました。子供の頃の私のスナップ写真の多くは、このカメラ(確かYASHICAの銘だった)で撮影されたもので、正方形のベタ焼きプリントが半世紀以上経った今も手元に残っています。

小学校高学年になると、周りの友達と同じように私も自分用のカメラが欲しくなり、親にねだって初めてのカメラを買ってもらいました。戦後すぐ大人たちがカメラに夢中になったように、今度は子どもたちにその余波が訪れてようとしていた頃でした。
買ってもらったカメラは、1957年発売の『フジペット』。富士写真フイルムが子供をターゲットに売りだしたブローニー判カメラで、おもちゃに毛の生えたような単純な機構のものでした。しかし、メカはシンプルなもののそれなりに実用になりましたし、何よりも安価なこと(当時の定価 1950円)が決定打となり、売れ行きは大変好調だったようです。
ブローニー判フジペットに引き続き、35mmフィルムを使用する『フジペット35』もすぐに追加発売されました。 私のフジペットはブローニー判だったので、フィルムの巻き上げにはカメラ背面の赤い丸窓を見ながらフィルム背面の遮光紙に印刷されているコマ数字を合わせる必要がありました。不思議なことに、この動作のことだけは今でも覚えています。
レンズ周りには大きなレバーが2つ対に配置されていて、中央上部には大きなビューファインダーが付いていました。かなり個性的なデザインのカメラで、現在ならば、「昭和の香りがするグッドデザイン」として多くの人々から評価されるのではないでしょうか。
でも、その頃の私は、自身専用のカメラを持つ事ができたということだけで満足し、買った当初はいろいろ弄ったり写真を撮ってはいましたが、そのうち飽きてしまいました。中学生になってからは、カメラの存在そのものですらすっかり忘れてしまい、カメラは、いつのまにか行方不明という悲しい運命をたどることになります。

高校・大学時代

カメラに再び興味を持ち使い始めたのは高校に入ってからです。多分、入学祝いか何かで貰った品だと思いますが、『キヤノネット』という名のキャノンの35ミリ判レンジファインダー普及機でした。
1961年発売の初期のモデルだったようで、フィルム巻き上げレバーはボディ底に配置されたりして、ユニークな機構のカメラでした。当時、私は山登りに熱中していたこともあり、山に行くときは必ずこのカメラを携行しました。八ヶ岳、大菩薩峠、霧ヶ峰などこのカメラで撮影したその頃の山の写真が今でも残っています。

その後しばらくして、35mmハーフサイズの『オリンパス・ペン』も追加で購入しました。たしか、お小遣いをせっせと貯め買ったんだと記憶しています。
オリンパス・ペンを選んだのは、同じ一本のフィルムでも倍のコマ数が撮影できお得だ、という単純な理由からでした。その頃の私は、写りうんぬんにはまったく無頓着で、活動の記録という意味でのみカメラの存在を考えていたと思います。
大学時代は、山好きの延長で、当然のこととして山岳部に入りました。しかし、それまでの個人山行とは違い、体育会・山岳部では山にカメラを持って行くことはご法度でした。なぜカメラがダメだったのか、思い返しても理由は定かでありません。
一期一会の思いで山に挑むことが重視されたのか、数十キロにおよぶキスリングの重みの中にカメラを忍ばせるだけの余裕がなかったのか、あるいは写真など撮って嬉しがっている素人登山者と間違われたくなく思う体育会・山岳部のプライドなのか、それとも山岳部の昔からの単なる慣習だったのか、その本当なところはよくわかりません。そんなことで、触れる機会が少なくなるにつれ、知らず知らずのうちに、カメラと疎遠になっていくことになりました。

社会人になってから

社会人になりたての頃もカメラにはあまり興味がありませんでした。というより、他に熱を入れている遊びや仕事のことで頭がいっぱいで、カメラのことなど考える余裕はなかったといってよいでしょう。何台か、やはり普及クラスのカメラを手元に置いてはいたと記憶していますが今は忘却の彼方、それがどんなカメラだったか思い出せません。

社会人になってから、はじめてある程度まともなカメラを購入したのは、海外の現地調査でどうしても必要という切羽詰まった理由からでした。私が発展途上国での調査・研究・計画づくりのプロジェクトに関わり始めたのが1975年、なのでカメラを買ったのはその年だったと思います。
現地は過酷な環境にあるので、ある程度ヘビー・ディーティな状況に耐えうるカメラが絶対条件で、その結果選んだのは『キャノンF1(初代)』でした。標準 50ミリF1.8の純正FDレンズが付いたセットで、購入価格はよく覚えていませんが、まだ30歳前のサラリーマンにとっては覚悟のいる買い物だったと記憶しています。
ごつい機体で、いかにも丈夫、安心感がありました。このカメラは、仕事に、プライベートに、10年位にわたってよく働いてくれました。撮影した写真のなかでは、タイの田舎の空が大きく写った一枚が大好きでした。きれいな発色のブルーがどこまでも続く美しい田園風景写真を見て、カメラ・レンズの表現力はすごいもんだと初めて感じ入ったりもしたのも、このカメラが最初でした。
やがて、1980年代中頃になると、オートフォーカス一眼レフが台頭し、これがこれからのカメラの主流となると言われるようになりました。私の海外での現地調査はこの頃も毎年のように続けられていましたが、当時、混成チームからなる日本調査団を指揮する団長さんがカメラ好きの人で、世界初となるAF一眼レフであるミノルタの『α-7000』を真っ先に買い、ことあるごとに団員である我々は団長からその自慢話を聞かされていました。自分には既にキャノンF1があるし、カメラにも十分満足していましたが、正直、自動で瞬時にピントが合うという革新的なメカニズムには大いに興味をそそられたし、団長の話は少々ウンザリはしたものの刺激を受けなかったと言えばウソになります。
それから3、4年ほど経った1980年代の末、AF一眼レフも随分と値段がこなれ自分でも買えるレンジに入ってきました。また、性能的も安定してきたようだし、このタイミングで思い切って購入することに決心しました。
選んだのはニコン。今までのカメラがキャノンの一眼レフだったので、ライバルであり、かつ、噂に聞くニコンの素晴らしさとはどんなところにあるのか、比べてみたいという気持ちもありました。で、そんな期待のもと、『NIKON F801』を自分用に、また、『NIKON F601』をカミさん用に、2つのカメラセットが我が家へやってくることになりました。
その頃は、海外での仕事は一段落し現地調査のためにカメラを使うといった場面がなくなったこともあり、新しく購入したニコンのAFカメラの出番は、プライベートでの旅行やレジャーでのお出かけのときがメインとなりました。しかし現実にいざこの高機能カメラを使ってみると、確かに便利・簡便ではあるものの、カメラ購入前に思い描いていた自分なりの漠然とした夢やカメラへの朧気な期待といったものは遂に感じることができず、むしろ少々裏切られたといった気持ちのほうが強かったように記憶しています。
機体の作りにしても、工業製品としての安心感や信頼性が高かったキャノンF1に対し、今度のニコンF801はどう贔屓目にみてもいま一つで、安直なプラスチック感がどうしても拭えません。また、電子カメラであるがゆえに、機械・マシーンとしての面白みにも欠けることが気になりました。量産の工業製品であるだけにしかたがないことかもしれませんが、機械は機械としてとしての魅力や美意識が伴っていなければ何か人を惹きつけることができないのかな、と漠然と感じるようになりました。 これは、今になって改めて当時の気持ちを客観的に分析したうえではじめて言えることなのかも知れませんが、当時は何故なのか自分でも十分に分析、納得出来ないまま、何かもやっとした不満が蓄積しただけでやり過ごしていました。
そんなことで、一時は興味を持ったハイテクカメラですが、これも次第に興味が萎んでいくことになりました。 そうこうするうち、3,4年ほど時間が経った1996年頃のことですが、地方への出張の帰りにたまたま立ち寄ったターミナル駅・池袋のカメラ量販店で、発売したばかりのAFレンジファインダー機『コンタックスG2』が展示されているのを見る機会がありました。
その時はなんでそういう気持ちになったのか自分でもよくわからないのですが、これを思わず衝動買いをしてしまいました。 カメラボディにレンズ3本(ビオゴン28mm/プラナー45mm/ゾナー90mm)をセットして、全部で実売30万円を超える高額の買い物でしたが、分からないうち、注文書にサインをしてしまいました。 何かよくわからないけれど、このカメラは面白そう、自分の知らない世界に導いてくれるかも、といった直感、淡い期待めいたものをこのカメラから感じとったのが衝動買いの裏にあったように思います。家に帰ってカミさんにこのカメラを買ったことを伝えたら、こっぴどく叱られました。 でも、自分としてはこのカメラで新しい世界がきっと開けるに違いないとの自信があり、そうするつもりでもありました。
だがしかし、・・・・・・・その結果は、挫折か待っているだけでした。 せっかく定評ある良いレンズ、高機能なカメラも宝の持ち腐れ、自分が嫌になりました。これは決してカメラのせいではなく、問題は自分にあるのはわかっていたものの、意気込んでこのカメラに接した割には、このカメラも前のニコンAF一眼レフと同様に、その実力を発揮しないまま長い眠りにつくことになります。

で、その結果・・・

以上、長々と説明してきましたが、結論としては、これまでの私のカメラ遍歴にみるように、私自身はカメラに興味を持ち続けることができない性格であること、そして、カメラは自分とは縁のない存在なんだと、これまでは半ば諦めに近い境地でいたことは、紛れも無い事実です。
現実としても、まあまあのグレードのカメラ機材が手元にあった割には、カメラや撮影に舞い上がり、熱を入れるということはついぞ起こらなかったし、ましてやカメラを使って芸術作品をつくろうなんて、大それたことを考えたこともありませんでした。
せいぜいカメラを使う場は、旅行の際の記録のためのスナップ写真くらいのものでした。しかも、重い一眼レフや交換レンズを持ち歩くのが年々苦痛になり、あの使い捨てカメラ『写ルンです』で旅のスナップは十分ではないか、最近まで本気でそのように考えるようになっていたところでした。

いかがでしたか? いかに私が世の中一般のコアなカメラファンとは異なり、いい加減な態度でカメラと接してきたか、そしてカメラに向いていない人間かをお分かりいただけたかかと。 そしてこの私が、なんとクラカメにハマり、クラカメと蜜に接したこの後の10年を過ごすことになるとは。
その続きは、以降のセクションで徐々に明らかにしていきます。

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